もらったら返す。世話になったら報いる。やり取りが公平である限り、人間関係は健全に回っているように見えます。それなのに、公平な関係にちゃんと囲まれた生活のどこかに、うっすらと虚しさが残ることがあります。
最近読んだ論文が、ここにひとつの説明を与えていました。鍵になるのは、関係の「モード」だという説明です。
関係の2つのモード
社会心理学には、人との関係の結び方を2つに分ける古典的な区別があります。Clark & Mills (1979) の、交換関係(exchange relationship)と共同的関係(communal relationship)です。交換関係は、与えたものに見合うものが返ってくることを前提にした関係です。取引先や同僚、知人との関係が典型で、貸し借りの釣り合いが取れていることがルールになります。共同的関係は、損得の釣り合いとは別のところで、互いの状態を気遣い合う関係です。家族や親しい友人との間にあるのはこちらで、相手が困っていれば、見返りの当てがなくても動きます。
どちらが良い関係でどちらが悪い関係だ、という区別ではありません。交換のルールがあるから、私たちは信頼のまだ育っていない相手とも安心して協力できます。等価交換は、大半の他人とやっていくための、よくできた形式です。それに、同じ相手との関係が常にどちらか一方ということもなく、人は場面によって2つのモードを行き来しています。
モードで変わる人生の意味の実感
ただ、この2つのモードは、その人の人生の意味の感覚に対して同じ働きをしないようです。
Wang & Zhang (2025) は、関係のモードと人生の意味の関係を5つの研究(計約1,800名)で調べています。日常的に関わる10人を挙げてもらった調査では、交換モードの関係の比重が大きい人ほど、人生の意味の実感が低いという相関が出ました。想起や想像で関係モードを切り替える実験でも、交換モードを意識した人は意味の実感が下がっています。
孤立や排斥が人生の意味を削ることは、これまでの研究でも繰り返し示されてきました。この論文が付け加えたのはその一歩先で、安定していて、公平で、ちゃんと続いている関係でも、それが交換モードである限り、意味の感覚は満たされにくい。関係に恵まれているように見える人の虚しさに、説明の場所を与える知見だと思います。
まるごとは見られていない、という感覚
では、公平なのに何が足りないのでしょうか。著者らが2つのモードと意味の間に置いたのは、非人間化(dehumanization)の経験でした。非人間化とは、人が持っているはずの人間性を軽んじる扱いのことで、この論文が扱うのは「固有の事情や感情を持つ一人として認められていない」と感じる経験の側です。といっても、日常で起きるものの多くはそんなに大げさなものではなく、相手の目に映っているのは自分の機能や役割で、その奥にある事情や気分までは見られていない等のような経験が測定されています。研究で使われる尺度にも、「まるごと一人の人としては見られていない気がする」という感覚を拾う項目があります。
交換モードでは、相手にとっての自分の価値は「何を提供できるか」で測られます。固有の事情や感情は、取引に関係のない情報として脇に置かれる。形式としてはそれで正しいのですが、その扱いだけが続くと、自分の存在が交換価値の分だけに縮んでいくような感覚が生まれます。著者らの研究では、この非人間化の感覚が、交換モードと意味の低下をつなぐ経路として繰り返し確認されました。
興味深いのは、これが「悪く思われている」感覚とは別物だという点です。非人間化された経験を思い出してもらう実験では、他者から良い人と見られているか悪い人と見られているかの影響を除いても、意味の低下は残りました。嫌われているわけでも、評価が低いわけでもない。ただ、まるごとは見られていない。それだけで意味の実感は下がるようです。
もうひとつ、著者らは、日常の非人間化の多くは敵意から生じるのではない、とも論じています。人が互いを道具のように扱ってしまうのは、たいてい、自分のことに気を取られていて、相手の事情や感情まで意識が向かないだけです。誰かが冷たいから起きるのではなく、非意図的にうっすらと生じているような出来事に思います。
なお、感じ方には個人差もあるようで、同じ論文では、他者とのつながりを自分にとって大事なものと考える人ほど、交換モードに置かれたときに非人間化を強く感じやすい、という結果も報告されています。
交換モードの比重が増すとき
この話が大事だなと思うのは、交換モードの関係が生活の中で自然と増えやすくなっているように感じるためです。
たとえば雇用では、会社と個人の関係を「スキルと報酬の交換」として明確にする方向に進んでいます。自分を「市場価値」で語ることも、もう普通のことになりました。人付き合いの側でも、コスパやタイパ、人脈といった投資対効果の語彙で関係を測る言い方が日常に馴染んでいます。ご近所付き合いのような、損得抜きのやり取りが自然に発生していた場も縮んでいます。例えばかつては近所の人に頼んでいたちょっとした用事や子どもの世話は、お金を払ってサービスとして頼むものになりました。
どれも、それ自体は合理的な変化です。著者らも、先行きが不確かな状況では人はむしろ交換関係を好むようになる、と指摘しています。何が返ってくるか予測できて、期待を裏切られにくいからです。ただ、生活が交換モードの関係で埋まりやすい方向に世の中が動いていて、それによって人生の意味の感覚が失われているのであれば、その虚しさは一人ひとりの気の持ちようというより、世の中の変化に連動して生まれているものだ、ということになります。
損得から降りられる関係
手がかりになりそうなのは、モードが関係ごとに固定されていないことです。同じ相手とのやり取りにも、2つのモードは混ざります。用件の連絡のついでに近況を聞く。返す当てのないまま、ちょっとした親切を受け取る。交換の帳尻とは関係のないそういう瞬間に「まるごと見られている」感覚があるのだとしたら、冒頭の虚しさに足りないのは、新しい関係でも、もっと公平な関係でもなく、いまある関係の中でモードが切り替わる瞬間の方なのかもしれません。
参考
- Clark, M. S., & Mills, J. (1979). Interpersonal attraction in exchange and communal relationships. Journal of Personality and Social Psychology, 37(1), 12–24.
- Wang, J., & Zhang, H. (2025). Dehumanization as a bridge between relationship modes and meaning in life. Personality and Social Psychology Bulletin. Advance online publication. https://doi.org/10.1177/01461672251396592